2021.10.14 07:03

とめどない、なに?

またもや久々にこちらに文章をまとめている夜更け頃。
なかなか寝付けないのをいいことにパソコンに指先を押し付けていたところ、このブログの存在を思い出した。
このブログの存在意義ってなんだろう?
そんなことを考えるのが、なんとも夜更けらしい。

文章を書きたい、などとほざいて本当にはや何年もたった。
結果として私は何も行っていない。
なぜか。
散々考えた上で結構当たり前でみんながたどり着きそうな答えを叩き出してしまったのだが、果たしてここに書くべきか一寸迷ったが、この記事を執筆している時点で書かないと話が進まないだろうと。
軸がありません。私には。
知ってますって思いますけれども、これには少々事情が変わったことがある。
今までは私自身の人生観においてあまり軸がないですよ、という口ぶりでいたのに対し、今回は自身が書く文章についての話である。似て非なるものとして捉えてほしい。
果たしてどういうことか。
最近また文章を書いて生活したいな、と甘ったれたことを思うことが増えたのであるが、そこで考えてみた。
私は一体どんな文章がかけるだろう?
その問を頭に秘めながら幾日か過ごしてみた。
その間、書きたいと思ったものを文章化したものが以下である。(デモ版)

ここに引っ越してきて、数日。
新居ということもあり引っ越しするものが止まず、未だにロビーからエレベータにかけて舗装されている。
新居という定義っていつまでなんだろうとか、もしかしてこの舗装こみで内装なのかな、いやそんなわけないか、とかそういったくだらない意味のないことを脳内に巡らせながら、エレベータの前に立つ。
前日にはなかった張り紙が目につく。
「ベランダでの喫煙について」
なんでも紙タバコの煙や灰が近隣住民の迷惑になることから配慮しろ、とのこと。
なんとか紙タバコから脱し、所謂電子タバコに乗り換えることに成功した私にとっては幾分か関係のない張り紙であったが、なぜか気に止まった。
この間、ベランダで引っ越しで錬成されたダンボールゴミたちをまとめている最中、たしかにタバコの煙がにおったのを思い出す。
ベランダでタバコを吸う。
なにか物語が浮かんできそうな一節である。
隣の住民は確か男女二人組であったからカップルか、もしくは夫婦だろうか。(現代においてこのククリを分ける必要があるのかはわからない)
そして、その片割れしか吸っていないのだろう。
家庭内で肩身が狭いのか、はたまた部屋に匂いがつくのが嫌なのだろうか。
しかしながら、タバコを吸うこと自体は認められていて、そこに情というかなにかその2人の間の関係性を感じさせる。
なんてことを考えているとエレベータがきた。
未だに舗装されていて、突き当りの鏡は一向に顔を出す気配はないようだ。
どんまい。

みたいな感じである。
ちょっと文章を書くのが楽しかったのは内緒だが、なんというか、まぁ。
だからどうした?という文章である。
小説で言うところのつなぎの部分というか、そういった部分に異様に目がつく自分に気がついた数日間であった。
別に、ここに目をつけるということが悪いというわけではない。

ただ、一つ言えることは、ここから物語は生まれない(もしくは生まれづらい)ような気がしている、ということである。
むしろ、良くない傾向だと考える。
なぜなら、軸がないまま文章を書いていることが白日の下に晒されたからである。

プログラムを書くときは、必ず設計から行う。(ヒヤリングなど、実務上は必要だが個々人間の話ではないので省く)
スタート→概要設計→詳細設計→実装→単体テスト→連結テスト→リリース。
これがなにか作品を作る上で必要な工程である。少なくとも現代社会の現場では。

つまりどういうことか。

私がやっていることは設計なき実装である、ということだ。

もちろん設計などなくとも、まとまった、筋の通った作品をポンと生み出せるのならば良い。
ただ、私含め凡人は違うだろう。
途中ではたと立ち止まり、あれ、自分は何が書きたいんだろう、と今まで書いた文章を読んで思うだろう。
もしくは書き切れたとしても整合性のなさに愕然とするだろう。

そう、我々はテーマを選定し、設計しなければならないのだ。
設計しなければ、路頭に迷うのだ。きっとそうである。それは仕事を幾年かやる上で身にしみてわかったことだ。

上司も言っていた。
「君の役目は誰がやっても同じ実装ができるように、やるべきことを細かいタスクに分けることで、実装することではない。」

正直ハッとしたのを覚えている。
ぶっちゃけていって私は実装が好きでエンジニアという職業に憧れた。
プログラムを調べながらこんな機能あるんだ! とテンションを上げながら実装し、動くことを確認してまた喜ぶ。
そんな作業が好きだったからITエンジニアを志したのである。
そんな最中、先の言葉を投げかけられた。

もちろん個人的にプログラムを組んでいるときと具体的な目標は違うわけであるから、過去の自らの経験と乖離するのはしょうがないところはあるのだが、それでも「これだ」と思えるほどの衝撃はあった。

つまり、だ。
今から小説に置き換えて書いてみるが、
「小説を書くという行為は、文章を書くことではなく、テーマを選定し、目次を書き、そのなかでの展開を決めること」
なのであるようなのだ。
そこまで決まってしまえば、あとはそれぞれのパーツを様々な人に頼んだってある程度のクオリティは保てるだろう。少なくとも自分の作品と呼べるのでは?
はじめは文章力を使ってはいけないのだ。
文章力で引き込ませるようでは、今後やっていけなくなる可能性があるのだ。
それは現場の、土方の仕事なのだ。
(もちろん、文章力が秀でた作家を否定するつもりはない。生き残った上で文章力が高い作家はすでに、上流工程の能力を得ているはずである。)

この理論、結構的を得ていると思っていて、私はある作家について、
「文章力はないが、設定は毎度面白いなぁ」
と思っていたことがある。
それが山田悠介である。
リアル鬼ごっこで一世を風靡した彼であるが、私も例にもれず、ちゃんと読んだし、その他の本も何冊か手にとった。
毎回、設定には驚かされた。どうやって思いつくんだろう、と何度も思った。
ただしかし、最後まで昂ぶったまま読める本は少なかった。
なんでそうなっちまったんだ、と思う本が多かった。
多分、彼には他の作家ほど文章力がなかったのだろう。
新人賞を経由せずに有名になってしまったため、そこらの能力が一定水準に至る前にデビューできてしまったのかもしれない。

でも、それでも人気になれたのだ。映画化もしたし、多分漫画化もされただろう。
文章力、って多分新人には関係ないのだ。
読者を引きつけるのは、設定なのだ。テーマなのだ。

ここで、私自身に話を戻そう。

私がやっているのは設計なき実装である。
そして、これは新人が、新人になるためにはやるべきではない行為である、ということだ。

とりあえず、そこまで考えが至ったことを褒めようとは思う。
しかし、打開策が決まってないとなると問題である。
そして、問題になってしまっている。

今日は問題提起だけにして、また後日考えようか。
そうしよう、もう遅い。眠い。

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