2022.04.17 09:52

心がざわついて、

いる。
時たま訪れる状況である。

特に何か問題が起こっているわけではない。むしろ、現状は幸せであるのでは?
疑問符はあくまで建前で、実際幸せである。

ではなおさら、なぜ。

人は幸せになればなるほどそれと同等の大きさの不安を覚えるのではないか、と考えてみる。
感情、もしくはそれに類するものの起伏には絶対値がついているように思う。思う、というのはそれは私見であるからして。人はその縦棒で囲われた感情の起伏を、その時々の精神状態でどちらかに捉えるのではないか?
私は今幸せである。何度も書くとそうであると自分に言い聞かせているように思われるだろうが、そうではなく。その幸せによる感情の起伏が心に絶対値で記述される。あくまでもその感情の大きさ、距離のみが。
そして、ある時、自分の情緒が揺れ動いた時、たとえば感情に負をつけてしまう、そういったタイミングで。
心に刻まれているその絶対値の感情の起伏が、あたかも負の塊のように見えるのだ。
心がビットで表されるとして、その先頭の+/ーを表す0/1が異なるだけで、強大な化け物に変容するのである。

それが果たして脅威であるのかはわからない。
少なくとも、このようなとき、自身の中で結論を出さないのが肝心である、と思う。
こうやって、手を動かし、自分を観察し、言語化して記述するのが最善である、と思う。
言語化することは、とても大事なことである。
なにやらよくわからない感情、というものが何より危ない。1ビットの変更で、敵意を剥き出すからだ。
それは避けるべきだ、と思う。
私は、幸せである。
これは戒めではない。
単なる事実だ。
誰が、どう言おうと、私は今を生きていて、それがいくらか世の中に意味があって、人が作る歴史という意味ではなく、アカシックレコードの端に、生きた感覚のいずれかが刻まれている今が。
幸せであろう。

<